甲虫記 2
第5回 2007年 8月8日
1969年8月8日、世界で最も有名なレコードアルバムのジャケットが撮影された。ビートルズ最後のレコーディングアルバム「アビイ・ロード」。4人が歩調を合わせて横断歩道を渡る写真だけが全面に使われ、題名も文字もない。
ジャケットには、ビートルズ流の別れのあいさつが、さりげなく込められている。アルバム制作は「これで最後」という暗黙の了解の下で進められていた。約10分間に6カット撮られたなかから5番目のカットが選ばれた。デビューした62年から数々の名曲を生み出してきたスタジオに、4人が背を向けて歩き出しているようにみせる必要があったからだ。
アルバムの終幕を飾るメドレー最後の曲は「ジ・エンド」。突然の出来事のように思われたバンドの解散も、後になってみれば実に手順を踏んだ律義な儀式だった。
解散の理由はいろいろと語られている。
私見をいえば、皮肉にもレコーディング技術の進化が4人の人間関係に亀裂をもたらした。その傾向は、ちょうど1年前に2枚組アルバムの通称「ホワイト・アルバム」を制作していたころから頻繁に現れる。
デビューしたころは録音マイクの前で4人全員の「一発録り」が通常だった。だが、多重録音の技術が進むと4人がそろってスタジオに入る必要はなくなった。
68年6月11日、ジョンがアバンギャルドな「レボリューション9」に苦闘しているのを尻目に、ポールは別のスタジオで「ブラックバード」を1人で完成させた。「イエスタディ」や「エリナー・リグビー」などストリングスを挿入した曲以外でメンバーが単独で曲を完成させることは、それまではなかった。
ジョージが8月17日から5日間の短いギリシャ旅行にでかけると、ポールは1人で「マザー・ネイチャーズ・サン」と「ワイルド・ハニー・パイ」も完成させる。リンゴは、自分が知らぬ間にドラムのパートをポールが代わりに演奏して録音していることに強いショックを受けた。4人がそろった8月22日、「バック・イン・ザ・USSR」のレコーディング中にその不満は爆発し、リンゴは一時バンドを脱退する。
さらにポールは、他のメンバーをバックバンドのように演奏方法まで指示する態度をとり、メンバーとの溝を深くした。映画「レット・イット・ビー」に出てくるジョージとのやりとりの場面がその象徴だ。いわゆる「1対3」の状況は、4人がライブ活動をやめてスタジオにこもるようになってからの変化だ。
しかし、そもそも男4人が10年近くも一緒に仕事をしていること事態は奇跡といっていい。子どもの頃は「なぜ解散したのか」と疑問に思っていたが、社会人になってからは、自然とそうは思わなくなった。
最後のアルバムジャケットの撮影は、午前11時35分から行われた。ジョンの友人イアン・マクミランは、スタジオ前にあるアビイ・ロード(通り)の真ん中に脚立を立て、スタジオの門のすぐ外にある横断歩道を4人が往来するところを撮影した。アルバム発売以来、世界中から集まるファンが横断歩道を渡り、写真を撮っている。ただし、撮影が無事済んだことの裏には、その場にいた警官の好意があったという事実を忘れないほうがいい。
有名な「ポール死亡説」の根拠になったジャケットでもある。彼の葬式の列を描いているというわけで、3人とは異なり右足を前に踏み出しているポールが死体で、他のメンバーはその服装からジョンは司祭、リンゴが葬儀屋、ジョージが墓掘り人だとされる。さらにポールは素足であり、一部の社会では遺体を埋葬する際のしきたりであることや、左利きのポールが目をつぶって右手にたばこを持っているのも不自然だとされた。
またジョージの後ろに写るフォルクスワーゲンのナンバープレート「LMV281F」は「28IF」とも読め、もしポールが生きていたら28歳だという意味に解釈された。しかし、彼はアルバム発売当時まだ27歳であり、撮影された6カットのうち最初の2カットではサンダルを履いていた。
解散は秘密にされていたが、ポール死亡説の話題もあって、レコードは売れに売れた。英国では1969年9月26日にリリース。1週間でアルバムチャートの1位になり18週連続首位を独走。米国でも連続11週首位を守った。全世界の売り上げ推定枚数は、この年だけで500万枚とされる。
例のフォルクスワーゲンは、86年にザザビーのオークションにかけられ2300ポンドで競り落とされた。死んだことにされたポールは、93年11月に発売したアルバムジャケットに再びアビイ・ロードの横断歩道を渡るパロディ写真を採用した。撮影者は同じイアン・マクミラン。タイトルは「Paul is Live」。
「この日のビートルズ」の次回は、8月18日です(更新は8月17日夜)。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
お知らせ
『アビイ・ロード』
1998.3.11発売 EMIミュージックジャパン
収録曲
カム・トゥゲザー
サムシング
マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー
オー! ダーリン
オクトパス・ガーデン
アイ・ウォント・ユー
ヒア・カムズ・ザ・サン
ビコーズ
ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー
サン・キング
ミーン・ミスター・マスタード
ポリシーン・パン
シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドー
ゴールデン・スランバー
キャリー・ザット・ウェイト
ジ・エンド
ハー・マジェスティ
Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
第6回 2007年 8月18日
最年長で小柄なドラマー、リンゴ・スターを正式メンバーに迎え入れることは、ビートルズにとって成功へのステップアップのひとつだった。
リバプールの労働者階級の家に生まれた本名リチャード・スターキーは、3人とはすでに顔なじみだった。
ドラムを担当していたローリー・ストーム&ハリケーンズは、西ドイツ(当時)のハンブルクにある「カイザー・ケラー」でビートルズと交代でステージを務めていた。リンゴは代役としてビートルズのドラマーに入ることもあった。
新生「ファブ・フォー」の初ステージは、1962年8月18日。リバプール郊外にあるポート・サンライトのヒューム・ホールで開かれた夜のダンス・パーティー。4日後には、グラナダ・テレビ局のカメラ・クルーがキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏が初めてテレビカメラに収録された。
2月からブライアン・エプスタインとのマネジメント契約が始まると、3月にはBBCラジオに初出演を果たし、6月にはEMIのレコーディングセッションにもこぎつけた。念願のレコードデビューを果たしたのは、新生「ファブ・フォー」誕生から2カ月もたたない10月初めのことだ。
グループは長い下積み時代から抜け出し、栄光と成功への階段を駆け上がる、まさに直前の第一歩を踏み出そうとしていた。その矢先のメンバー交代だった。
リンゴは、ジョンの言葉に従ってあごひげを剃(そ)り落とし、髪のシルバーのメッシュもやめて「モップトップの4人組」のひとりになった。地元ファンは「世界一ツイてる男」と呼んだ。
一方で、「ビートルズになりそこねた男」ピート・ベストの悲劇がある。
ピートはビートルズ結成時の5人目のメンバーで、グループ初のハンブルク巡演に出かける前の1960年8月にメンバーに加わった。ほかに病死したスチュアート・サトクリフがいた。
新生ビートルズの初ステージがある2日前、ピートはエプスタインから電話で呼び出され、彼の事務所に向かった。そこで「3人が君をはずしたがっている。3人は君をドラム奏者としてはいまひとつだと思っている」と告げられた。
地元ラジオのディスクジョッキーはピートがビートルズ最大の魅力だと認めていた。地元ファンは「ピート・ベスト&ザ・ビートルズ」と呼んでいた。物静かで男前のピートを「容姿に関しては最も売れそうなタイプ」と評していたEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンは、エプスタインが解雇したことを「意外だ」と受け止めた。
ドラムの腕前は別として、3人がピートとの間に垣根を築き始めていたこと、エプスタインに解雇を告げるように依頼したことは事実だ。あくまで想像だが、3人は前髪をおろさず、女の子に最も人気があったピートに嫉妬(しっと)していたらしい。
アンソロジーによれば、ジョンは、ピートのメンバー入りはハンブルク巡演のためで正式なドラマーがみつかれば降りてもらうつもりだった、と証言している。
ポールはリンゴの加入によって「僕らにはちょっと弾みがついて、イマジネーションが広がり、バンド全体が安定した」と話す。
リンゴの加入に最も積極的だったのはジョージだ。ジョンとポールにリンゴを正式なメンバーに入れることを強く働きかけた。「リンゴが代役でドラムを叩(たた)くたびに『これだ』って感じがした」。リンゴの自宅を訪れ、応対したリンゴの母親にバンド入りの話を切り出してもいる。
ビートルズがリンゴを迎えて初めてキャバーン・クラブに出演した8月19日、ピートのファンが大挙して押し寄せ、「ピート・イズ・ベスト」「リンゴはビートルズにいらない」などと叫んだ。
ジョージはギグが終わって楽屋から暗い通路に出たところで、誰かに頭突きを食らわされて左目に大きなあざをつくった。ことの成り行きに狼狽(ろうばい)したエプスタインは、眠れぬ一夜を過ごした。
その後、ピートは音楽活動も一時目指したが、最終的には公務員に落ち着いた。
リンゴに会った人に取材すると、ほとんどが「4人のなかで最も謙虚な男」という評価で一致する。
リンゴ自身の有名な言葉がある。「ビートルズの中で一番好きなひとの人気投票をしたら、僕はビリになるだろう。だけど、二番目に好きなひととなったら、たぶん僕がトップだろうね」
遅れてきたビートルが果たした役割は大きい。
「この日のビートルズ」の次回は、9月5日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
お知らせ
リンゴ・スターにとって初となる、レーベルを超えたベスト・アルバム「フォトグラフ:ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・リンゴ・スター」の発売が決定しました(詳細はこちら)。
また、音楽配信&「着うた(R)」でも6曲の配信が決定しています。
『フォトグラフ ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・リンゴ・スター』
2007.9.19発売予定 EMIミュージックジャパン
収録曲
想い出のフォトグラフ
明日への願い
ユア・シックスティン
バック・オフ・ブーガルー
アイム・ザ・グレイステスト
オー・マイ・マイ
オンリー・ユー
ボークー・オブ・ブルース
1970年代ビートルズ物語
スヌーカルー
ノー・ノー・ソング
グッドナイト・ウィーン
ヘイ・ベイビー
ロックは恋の特効薬
ウェイト・オブ・ザ・ワールド
キング・オブ・ブロークン・ハーツ
ネヴァー・ウィズアウト・ユー
アクト・ナチュラリー
ラック・マイ・ブレイン Wrack My Brain (1981)
フェイディング・イン・アンド・アウト Fading In and Fading Out (2005)
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Ringo Starr Ringtones (着うた(R)配信曲)
想い出のフォトグラフ Photograph
明日への願い It Don't Come Easy
ユア・シックスティン You're Sixteen (You're Beautiful And You're
第7回 2007年 9月5日
ビートルズを成功に導いたマネジャー、ブラインアン・エプスタインが過度の薬物摂取による不慮の死を遂げた。4人は予定していたインド行きを延期。今後は自分たちがマネジメントすることを決め、遅れていた映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の制作を本格化させた。
40年前になる1967年9月5日、4人は映画挿入歌となるジョンの曲「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のレコーディングに入る。これを皮切りに未完成だったタイトル曲などの挿入歌を仕上げ、2枚組の6曲入りシングル盤として12月8日に英国で発売した。
最高位は2位。トップの座を阻んだのは、11月24日に発売した彼らのシングル「ハロー・グッドバイ」だった。ジョンは「アイ・アム・ザ・ウォルラス」がポールの曲のためB面に追いやられたことを侮辱だと感じていた。
シングル盤のA面をめぐり、ジョンとポールは常につばせり合いをしてきた。愛しあい、競い合い、嫉妬(しっと)もする。これがビートルズ・マジックの原動力だ。解散後、ちょっとずつ効果は薄れていくが、ジョンが射殺されるまで2人には魔法がかかっていた。
映画のアイデアはポールによるもの。
アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の録音が一段落した同年4月、恋人ジェーン・アッシャーの誕生日を祝うため米国へ。旅行中、「カッコーの巣の上で」の原作者ケン・キージーが恋人とバスで国内横断旅行する冒険談を読んで、ビートルズがカラフルな大型バスに乗って多彩な俳優陣ともども奇妙なバス旅行に出る、というあらすじを思いついた。
8ミリカメラを使い、電子音楽のサウンドトラックをつけて、映画を自作する作業に熱中していたポールは、「脚本のない映画制作」が念頭にあった。ロケ地と俳優陣は決めておくが、ストーリーは撮影を進めながら、成り行き任せで展開していくというものだ。
英国へ帰る飛行機の中でアイデアをメモに書きとめ、タイトルソングのメロディーと詞を1行書き上げた。数日後、ほかのメンバーにメモを見せると、4人はその日のうちに60分の特別番組をつくることを決めた。
4月25日にはタイトルソングの録音にとりかかる。
しかし、アニメ映画「イエロー・サブマリン」のためのレコーディング、初の世界衛星生中継テレビ番組「アワ・ワールド」への出演と多忙を極めていた。ようやく映画のための録音が再開した矢先の8月27日、マネジャー、エプスタインの死に遭遇する。
撮影のほうは9月11日から始まった。人気コメディアンや抽選で選ばれたファンら総勢43人が、ボディーに「MAGICAL MYSTERY TOUR」のペイントを施したバスでロケに出発した。ところが、この派手なバスがマスコミやファンの追跡を受けて予定外のハプニングを引き起こし、ことは構想通りに進まなかったという。
約52分のTV映画に編集され、12月26日のゴールデンタイムにBBCから英国全土に向けてTV放送された。視聴率75%という関心の高さだったが、カラー作品なのに白黒で放送された不運も重なり翌日の新聞は猛烈な酷評を浴びせた。
「難解」「ナンセンス」「ビートルズも失敗をする」「神話の終焉(しゅうえん)」――。
日本では68年にテレビ放送された。4本のフィルム・リールの順番が間違ってオンエアされたのに視聴者からの反応はほとんどなかったそうだ。
僕は30年ほど前に映画館で初めてみた。4人が白いタキシード姿で「ユア・マザー・シュッド・ノウ」を歌いながら長い階段を下りてくるラストシーンにたどりついて、ようやく安心したのを覚えている。一体何の話なのか、彼らの作品を好意的に見るのにも限界があると感じていた。
だが、この映画にストーリー性を求めてはいけない。60年代後期のサイケデリック時代に先駆的につくられたロック・ムービーと考えれば随所にみるべきところはある。
なかでも「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の演奏シーンは出色だ。
ポールの合図でリンゴがフィルインする冒頭からゾクゾクさせられる。4人がセイウチのマスクをするアイデアはレコードジャケットに採用された。手をつないだ警官がバスの後について草原を歩いていくエンディングは、映画全体を包むシュールリアリスティックの象徴だろう。
「黄色い膿(うみ)みたいなカスタード、緑のぐちゃぐちゃのパイ、死んだ犬の目と一緒にまぜて、パンにベシャッと塗りつけろ……」
意味不明でナンセンスな言葉がちりばめられた風変わりな曲は、詞の意味を探ろうとするものをわざと混乱に陥れるために書かれたようだ。
曲が完成すると、ジョンは親友のピート・ショットンに「こいつの解釈は、イカレポンチどもにおまかせしようぜ」と告げたという。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、9月14日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
お知らせ
『マジカル・ミステリー・ツアー』
1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
収録曲
マジカル・ミステリー・ツアー
フール・オン・ザ・ヒル
フライング
ブルー・ジェイ・ウェイ
ユア・マザー・シュッド・ノウ
アイ・アム・ザ・ウォルラス
ハロー・グッドバイ
ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
ペニー・レイン
ベイビー・ユーアー・ア・リッチマン
愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ)
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また、今年8月25日に、「MAGICAL MYSTERY TOUR:ROCK MILESTONES」のDVDが発売されました。
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年09月05日)
第8回 9月14日
1966年9月14日、口ひげを伸ばしたジョージ・ハリソンは妻パティ・ボイドを伴ってインドへ向かった。ビートルズは8月の米国ツアーを最後にライブバンドとしての活動に終止符を打つ。
帰国すると、ジョンが映画「ジョン・レノンの僕の戦争」のロケでドイツ、スペインへ飛ぶなど、メンバーは単独活動を活発化させていた。
ハリソン夫妻はムンバイ(ボンベイ)のタージ・マハール・ホテルに「サム・ウェルズ夫妻」という偽名でチェック・インした。だが、新聞記者に身元を見破られてしまい、ジョージは、1000キロ近く離れたヒンドゥー教の聖地バラナシで、シタールの名手ラビ・シャンカールのレッスンを受けるためにインドへ来たことを仕方なく明かした。
シタールは9本の弦、稼働可能なフレット、下部の振動弦が備わったインドの弦楽器である。
ジョージがシタールに興味を持ったのは、前年の65年に制作された映画「ヘルプ」の撮影がきっかけだ。インドレストランで、インド人の楽団が演奏する中、男がスープの中に投げ込まれるギャグ・シーンがあるが、この撮影の合間に初めてシタールを手にとってみて「変な音がするな」と思ったらしい。
シタールを手に入れると、今度はラビの名前を何度も耳にするようになった。そしてザ・バーズのデヴィッド・クロスビーと話していてラビの名前を聞いたときには、即座にラビのレコードを買いに行った。
「ぼくの中のある部分が強く揺さぶられているのがわかった。ぼくの知性は理解していなかったんだけど、ぼくの残りの部分はなぜかそれと一体化していたという感じかな」。22歳。インド音楽に魅了される。
ビートルズが初めてシタールを採り入れたのは、65年12月に発表したアルバム「ラバー・ソウル」の収録曲「ノルウェーの森」だ。
しかし、シタールを入れようと言い出したのは作者のジョンだった。曲に彩りを添えるため、ジョージが持っていたシタールで「ディー、ディドリー、ディー」というフレーズを弾けないかと考え、実際にギターで「こんな風に」と弾いて見せた。
ジョージは「自信はないけど、何とかやってみるよ」と答えた。ジョンの期待に応えようと一生懸命に練習をしたのだろう。アルバム「アンソロジー2」に収録された初期の別テイクを聴くと、その自信のなさがつたない旋律とともに伝わってくる。
さて、ジョージが持ち前の探求心の強さを発揮するのは、ここからだった。
66年8月に発表されたアルバム「リボルバー」では、シタールのための初めての自作曲「ラヴ・ユー・トゥ」を発表する。シタールのほか打楽器タブラも採り入れ、インド音楽とロックを融合させた意欲作だ。「脱アイドル」の方向性を象徴する曲になった。
このころロンドンではちょっとしたシタールブームが起きていた。キンクスとヤードバーズがインド音楽に影響を受けたシングルを出し、ローリング・ストーンズはブライアン・ジョーンズが達者なシタール演奏をみせる「黒くぬれ」で、3枚目の英国ナンバーワンを獲得した。
ジョージがラビに初めて会ったのは、「リボルバー」の録音が最終段階に入った同年6月。場所はロンドンにある共通の知人宅だった。
ラビは、ジョージに、シタールの独学は愚行であるとただし、弟子入りをすすめた。そして、インド音楽の「言葉」にすんなりとけ込むために、インドを訪れ、生活のリズムを肌で感じるべきだとを主張した。
ジョージはラビの言葉に素直に従った。それまでジョンとポールに逐一指示を受ける不快さに常に耐えていたが、そうした忍耐とは明らかに違う謙虚な態度だった。
ハリソン夫妻はインドに約5週間滞在し、10月22日にロンドンに戻った。カシミールでハウスボートに宿泊したり、バラナシで宗教的な祭りを体験したりしてインドや東洋思想への興味を広げた。
この旅の成果は、67年6月発表のアルバム「サージェント・ペパー」に収録された「ウイズイン・ユー・ウイズアウト・ユー」で聴くことができる。シタールや打楽器タブラのほか、弓で弾くディルルーバ、琴に似た形のソードマンデル、弦楽器タンブーラといった「インド土産」がちりばめられている。
ジョンは「ジョージの最高傑作のひとつ」と率直に才能を認めた。
68年3月に発売したシングル盤「レディ・マドンナ」のB面「ジ・インナー・ライト」は、ジョージ初のシングル・リリース曲となった。インド人ミュージシャンでボーカル以外の全パートが録音されている。
サイケ映画「ワンダーウォール」のサントラ盤であり、ジョージ初のソロ作品「不思議の壁」もインド音楽に取り組んだ成果といえる。
バンド解散後の71年には、ラビの頼みを受けて「バングラデシュ難民救済コンサート」を開催した。ラビの父の出身地がバングラデシュにあり、親類や友人が難民のなかにいた。
ラビはジョージの単なる音楽の師にとどまらず、信仰の指導者になり、父親代わりの存在にもなっていく。
お知らせ
『不思議の壁』
1992.6.24発売 EMIミュージック・ジャパン
収録曲
マイクロウブス
レッド・レディー・トゥ
タブラとハカヴァジ
イン・ザ・パーク
ドリリング・ア・ホーム
グル・ヴァンダナ
グリージー・レッグス
スキーイング
ガット・キルワニ
ドリーム・シーン
パーティー・シークーム
ラヴ・シーン
クライング
カウボーイ・ミュージック
ファンタジー・シークインズ
オン・ザ・ベッド
グラス・ボックス
ワンダー・ウォール・トゥ・ビー・ヒア
シンギング・オン
『ザ・ビートルズ/リメンバー』
クラウス・フォアマン プロデュース・センター出版局
ビートルズの「リボルバー」のジャケット・デザインを手がけた、画家でありベーシストのクラウス・フォアマンのイラスト&エッセイ集「ザ・ビートルズ/リメンバー」が発売されました。著者はビートルズの初期時代からの知り合い。一緒に青春を過ごしてきた人物です。
Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビュー
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