2009年9月23日水曜日

甲虫記 3

甲虫記 3

第9回 2007年 10月5日





1962年10月5日、ビートルズの記念すべき英国デビューのシングル盤レコード「ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー」が発売された。



コアなファンには周知の事実だが、A面の「ラヴ……」には3種類の公式バージョン(版)がある。ほとんどの人が耳にしている版で、リンゴはドラムスではなくタンバリンを演奏している。


そして、B面の「P.S.……」でドラムスを担当しているのは熟練セッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトで、リンゴはマラカスを振っているだけだ。
こうなった原因は、録音を指揮したEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンの考えによるところが大きい。


デビュー・シングル発売に向けた録音は、62年6月6日、9月4日、同11日の計3回行われたが、3回ともドラム担当者が違っている。正確なテンポを刻むドラム演奏に慣れていたジョージ・マーティンの「耳」を、若きピート・ベストもリンゴもすぐには満足させることができなかったからだ。


ビートルズがEMIで初めての録音に臨んだ6月6日、ピートがドラムをたたいた。この版は、95年11月世界同時発売の「アンソロジー1」に収録されてようやく日の目を見る。全体にテンポは遅く、サビと間奏でシャッフル系からエイト・ビートにリズムが変わるなど不安定な演奏だ。


ジョージ・マーティンは録音が終わるとピートを部屋の隅に呼び、「次はスタジオ・ミュージシャンを雇う」と告げた。当時はセッション専用のドラム奏者を使うことは珍しくなかった。


8月にピートはビートルズを解雇される。ジョージ・マーティンの指摘が自然と最終的な方向を突いていたのは確かだが、解雇の理由ではない。ピートの母に電話で釈明した内容から、マーティンの基本的な考え方が伝わってくる。
「ピートを辞めさせなければならないとは言っていない。ビートルズの最初のレコードだから、セッション・ミュージシャンを使ったほうがいいと思うと言っただけで……。それにファンというのはドラム演奏の質には特別の注意を払いません」


2回目の録音があった9月4日、新メンバーのリンゴがドラムスを担当した。ところが左利きなのに右利き用のキットを使っていたリンゴは、ロール演奏がうまくできなかった。どうしてもビートが速くなったり遅くなったりする。この日は、スティックではなくマラカスでハイハットを刻む妙なテクニックも試みた。


そのときジョージ・マーティンには、リンゴの本当の実力が分からなかった。ビートルズと危険を冒す心構えもできていなかった。ポールに「リンゴはやめよう。このレコードでは別のドラマーを使いたい」と告げた。


3回目の録音の日、スタッフの記憶によればリンゴはスタジオにあったドラムに触ってもいない。スタジオに行くと「プロのドラマーがいるから」と言われ、静かにコントロール・ルームで座っていた。そのうち「ラヴ……」でタンバリンを担当し、「P.S.……」ではマラカスの演奏を頼まれた。


いよいよデビューという段階になって双方に歩み寄りがみられた。最初にシングル盤として発売されたバージョンは、タンバリンが入っていない「リンゴ」版に決まった。
マネジャーのブライアン・エプスタインは自分が経営するレコード店で1万枚注文したり、BBCとラジオ・ルクセンブルクに手紙を出すキャンペーンを仕掛けたりした。英国のヒット・チャートで最高位は17位。


ところが、63年3月発売のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」では「アンディ」版が収録された。このころからEMIは「アンディ」版を正式版扱いにし、シングル盤やEP盤も「アンディ」版に差し替えている。ベスト盤「ビートルズ1962―1966」(通称・赤盤)にも「アンディ」版が収録されている。


一方、リンゴが演奏した版は珍品扱いとなった。解散後に発売された編集盤「ビートルズ・ボックス」と米国盤「レアリティズ」に収録されたが、2作ともCD化はされていない。英国で最初に発売された、センターレーベルが赤色のドーナツ盤は、いまや収集家にとって垂涎(すいぜん)の的だ。


「リンゴ」版の原盤は長らく「紛失した」とされていたが、デビュー20年後に「発見」され、82年11月に「アンディ」版と組み合わせた12インチ・シングル盤で発売された。いまはCDアルバム「パスト・マスターズVOL1」で聴くことができる。


さて、ジョージ・マーティンにドラマーを降ろされたリンゴは、そのことを何年も恨んでいた。内心は「ピートの次はおれか」と相当焦っていたはずだ。マーティンから何度か謝罪を受けたというが、アンソロジー(本)では「完全に許しちゃいないからね」と記している。


98年に発売されたリンゴのソロアルバム「ヴァーティカル・マン」には、いまやロック・クラシックにもなった「ラヴ……」が収録された。ジョンの代わりにスティーヴン・タイラーがハーモニカを担当。リンゴは、昔年の恨みを晴らすかのようなパンチの利いたドラミングにあわせ、実に心地よさそうに歌っている。


お知らせ
本文中に登場するアルバム
「アンソロジー1」
1992.6.24発売 EMIミュージック・ジャパン

「プリーズ・プリーズ・ミー」
1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン

「ビートルズ1962-1966」
1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン

「パスト・マスターズVOL1」
1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン

「ヴァーティカル・マン」
1998.6.29発売 EMIミュージック・ジャパン

Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年



第10回 2007年 10月12日


浮き彫りになったアルバムタイトル。通し番号を付けただけの真っ白なジャケット。「ホワイト・アルバム」の愛称で呼ばれる通算9枚目のオリジナルアルバム「ザ・ビートルズ」は、計94分間に30曲が収録された初の2枚組アルバムだ。


ロック、ポップス、フォーク、ジャズ、ブルース、クラシック、レゲエ、アヴァンギャルド……。実に多種多様な楽曲が詰め込まれ、聴き手を飽きさせない。
レコーディング・セッション(録音)は1968年5月30日から始まり、アルバム用に32曲を録音して10月14日に完了した。さらにA面からD面の曲順を決めるため16日昼間から24時間の作業が追加された。


選曲は、最初に力強い曲を配して、あとに続くのが困難なタイプの曲で締めくくるという「ジョージ・マーティン方式」を採用。ジョージ・ハリソンの4曲を各面に1曲ずつ散らし、同じ作曲者の作品を2曲以上続けないようにした。


ヘビーなロックナンバーはC 面に集まり、「ブラックバード」「ピッギーズ」「ロッキー・ラックーン」の動物の名前をタイトルに持つ曲はB面に並んだ。「ノット・ギルティ」と「ホワッツ・ザ・ニュー・メリー・ジェーン」の2曲をはずした。


前作「サージェント・ペパーズ」同様、曲間を3秒以上の空白を置かないようにつなぎ合わせて編集している。タイトルは無題のポールのアドリブ曲「キャン・ユー・テイク・ミー・バック・フェン・アイ・ケイム・フロム」は、「レボリューション9」の導入部に使われている。
収録された曲の多くは、68年2月に4人が休暇を過ごすため訪れたインドでつくられた。
ヨガの導師であるマハリシ・マヘシ・ヨギが唱える超越瞑想(めいそう)に参加するため、妻や恋人を連れて聖地リシケシュにある瞑想アカデミーに入学。しかし、食べ物があわないリンゴは10日で退散し、ポールも40日で根を上げた。


熱心だったジョンとジョージは2カ月とどまったが、マハリシが女性修行者に手を出そうとしたという噂にジョンが激怒して2人は山を下りる。このあてこすりの歌が「セクシー・セディ」だ。


5月の3週目ごろ、4人は英国南部のサリー州イーシャにあるジョージの別荘「キンファンス」に集まり、23曲のデモ・テープをつくる。ポールの「ジャンク」、後に詞が入れ替わって「ジェラスガイ」となるジョンの「チャイルド・オブ・ネイチャー」、ジョージの「サークル」などソロになってから発表された曲もあった。


約4カ月半の長きにわたったアルバム制作中は、メンバー間の衝突が表面化した時期でもあった。
避けて通れないのはオノ・ヨーコの存在だ。ジョンとの仲は、録音が始まる直前に開いたアップル・ブティック2号店の開店祝賀会に2人で公然と姿を現すほどに発展していた。アメリカで育ち男女平等の気風にふれているヨーコは、ジョンと一緒にスタジオ入りするだけでなく、平気で録音にも参加した。


4人が育ったイングランド北部には、男の仕事に女が口出しするのは許し難い気風が残っていた。実際、スタジオでの作業は4人だけの場であり、彼らの妻や恋人が割り込むことはなかった。だから、スタジオで片時もジョンのそばを離れず、セッションに口出しもするヨーコに、ほかの3人は神経を逆なでされた。


波風を立てたジョンが守勢に回ると、ブライアン・エプスタインの死を境に、リーダーとして頭角を現してきたポールの振る舞いが目につき出す。



マルチ・タレントぶりを発揮して、夜中に1人でスタジオにこもり、勝手に曲の録音を完了させてしまうこともあった。ジョンは苛立った。ないがしろにされたリンゴは、ある日、ドラミングをポールに非難されてキレた。スタジオを飛び出し、2週間ほどグループを「脱退」する。



こうしたいがみ合いに耐えきれなくなり、「リボルバー」以来のエンジニアを務めてきたジェフ・エメリックはスタジオを離れてしまう。しまいにはジョージ・マーティンも録音の終盤に1カ月の休暇をとってしまう。


ソ連軍がチェコスロバキアに侵攻した68年夏、ビートルズはスタジオにこもりっきりになった。プロデュースやリミックスなどアルバム制作はすでに彼らの手中にあった。1曲に100テイク以上も録音をかけるかと思えば、セッションミュージシャンを雇っておきながら録音をしない日もあった。


ハリソンは相変わらず第3の男だった。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」の録音を始めたのは、「スタジオ入り」から2カ月近くになる7月下旬だった。「ジョンとポールの曲を10曲ぐらいやってからでないと時間がもらえないから」


ところが、「泣きのギター」が必要なこの曲に元クリームの名手エリック・クラプトンを起用したことで、スタジオの雰囲気は一変した。起用を提案したハリソンは「メンバー以外の他人が来ると、みんなお行儀が良くなるんだ。あれ以来みんなもっと本気になった」。



レス・ポールで弾いたクラプトンのソロは文句のつけようがない演奏だった。録音は9月6日のたった1日だけで完了。4人は、残り1カ月余りで手つかずだった14曲の録音もすませた。「クラプトン効果」の現れである。


翌年1月から始まり、やはり迷走した「レット・イット・ビー」セッションでは、クラプトンの役をビリー・プレストンが演じることになる。
昔の音楽評論誌を読むと、「ロック音楽の金字塔」と絶賛された前作「サージェント・ペパーズ」と比べて、「散漫だ」と評価されていた記憶がある。



前作のコンセプト・アルバム色が払拭(ふっしょく)され、メンバーのソロ作品の集合体のような「まとまりのなさ」が相対的に低い評価につながっていたのだろう。
しかし、新作を8カ月も待たされたファンはビートルズの音楽に飢えていた。ギネス・ブックには、米国発売から1週間で「200万枚近く」売り上げたレコードと記載している。



発売1カ月で世界中の売り上げは400万枚以上に達し、70年末までに650万枚を超えた。2枚組アルバムの売り上げ記録としては、77年に「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤が記録を塗り替えるまでナンバー1の座を保っていた。


レコードと格闘するように正対に向き合い、ロック音楽を聴いていた時代は去った。ダウンロードした曲がバラ売りされる時代だ。けれども、4人の個性が激しくぶつかり合ったホワイト・アルバムの輝きが衰えることはない。
お知らせ
「ザ・ビートルズ」
1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン


収録曲
ディスク:1
バック・イン・ザ・U.S.S.R.
ディア・プルーデンス
グラス・オニオン
オブ・ラ・ディ,オブ・ラダ
ワイルド・ハニー・パイ
コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロウ・ビル
ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス
ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン
マーサ・マイ・ディア
アイム・ソー・タイアード
ブラックバード
ピッギーズ
ロッキー・ラックーン
ドント・パス・ミー・バイ
ホワイ・ドント・ウィ・ドゥ・イット・イン・ザ・ロード
アイ・ウィル
ジュリア
ディスク:2
バースデイ
ヤー・ブルース
マザー・ネイチャーズ・サン
エヴリボディーズ・ゴット・サムシング・トゥ・ハイド・エクセプト・ミー・アンド・マイ・モンキー
セクシー・セディ
ヘルター・スケルター
ロング・ロング・ロング
レボリューション1
ハニー・パイ
サボイ・トラッフル
クライ・ベイビー・クライ
レボリューション9
グッド・ナイト
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」







第11回 2007年 10月26日

1965年10月26日 MBEを受賞したビートルズのメンバー(Photo by Keystone/Getty Images)-->

サージェント・ペパーのジャケット。ポールとジョージがMBE勲章を胸につけて写っている


「サージェント・ペパー」のアルバム・ジャケットには、ポールとジョージがMBE勲章を胸につけて写っている。MBE(メンバー・オブ・ジ・オーダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイア)勲章は、英国の受勲者名簿に記載された人物に毎年贈呈される栄誉賞だ。ビートルズは1965年10月26日、バッキングガム宮殿の大謁見室でエリザベス女王に勲章を授与された。


ロールスロイスで宮殿に到着した4人は、黒いスーツとネクタイ姿で並び、女王が勲章を細い襟にとめていった。
「みなさんはどのくらいもう一緒にやっているのかしら」と女王は聞いた。
「もうずいぶんと長い間ですよ」とポール。リンゴは「40年間です」と答え、みんな笑った。


その年の授与者は計182人。宮殿の外には約4000人の若者が集まり、スクラムを組んで押さえつけようとする警官ともみ合い、「女王陛下万歳、ビートルズ万歳」を繰り返した。中には宮殿のさくや街路灯によじ登ったものもいた。


ジョージ4世が1917年に制定したMBE勲章は、市民に授与される5階級のうち最下級の勲章で、それほど権威があるものではなかった。しかし、ロック・グループのメンバーが勲章を授かることは前代未聞の出来事だった。


6月12日にビートルズへの授与が発表されると、不満を抱いたかつての受勲者たちからの抗議の返納が続いた。その数、863人という。ある前カナダ下院議員は「英国王室は、私を卑しい間抜けどもと同列においた」と述べた。12個もの勲章を返納した大佐もいた。作家のリチャード・ペイプは「英国は世界各国から嘲笑され、軽蔑される」と書いた。


一方、賛意を示す書簡も女王に届いた。オーストラリア高等弁務官を退任した陸軍中将のウィリアム・オリバー卿は「ビートルズはMBE勲章に値する」と述べた。
ジョンは腹を立てた。不平をいう多くは戦争の英雄行為で勲章を受けた人たちだとして、「彼らは人を殺して勲章をもらったわけだけど、ぼくたちは人を殺さずにもらった」と批判した。


そもそも受勲にあたってジョンには葛藤があった。「OHMS(公用)」という封筒が届いた時、徴兵令状を受けたような気がした。内容が分かったとき、勲章を受け取るのは偽善的な行為だと直感し、断ろうと思ったという。その封筒をファン・レターと一緒に片づけてしまってもいる。


ジョンは自分の気持ちをブライアン・エプスタインに伝えると、ブライアンは「勲章をもらう権利書のようなものだから探すように」と必死に説得した。ジョンも拒絶すれば、ビートルズに計り知れない打撃が与えられることは十分に理解していた。


叙勲の名簿を作成したのは、ビートルズと同じリバプール出身のハロルド・ウィルソン首相だった。「ニュー・ブリテン」を唱えたウィルソンは、64年10月の選挙で13年間続いた保守党政権に勝利して首相になった。


ビートルズへの叙勲を推薦したのは、外貨獲得の功績のほかに、若者受けを狙った戦略であることをジョンは鋭くかぎ取っていた。
ジョンは授与された勲章の扱いについて「家で一番小さい部屋にしまっておくよ。ぼくの書斎にね」と話した。実際は、育ての親である叔母のミミにあげた。ミミは自宅の暖炉の上に飾っておいた。


1969年11月25日、ジョンはMBE勲章を女王に返還した。自分の主張を世間に知らせたかったためだ。
ジョンは勲章を茶色の紙に包み、宮殿の女王あてに返納した。


ナイジェリアとビアフラの紛争に英国が介入したことに抗議し、ベトナム問題で米国を支持したことを抗議し、「コールド・ターキー」をチャートから排除したことを抗議する、と返納の理由を記したメッセージを添えた。


ひそかに返してもいずれ知られることになる。それならば隠したりしないで大胆に行動しようと決めた。平和のためのイベントにしようと考えたという。「ヨーコと一緒に英国政府に抗議したいだけだ。できるだけ効果的な方法で」
その数カ月前、ジョンは運転手に叔母の家から勲章を取ってくるように頼んだ。ジョンの目的を知らされていなかったミミは返納を知って激怒し、ジョンに女王を侮辱したことになると責めた。ジョンは「叔母さんにはすまないと思っているけど、どうしようもなかった」と話している。


フランスの雑誌「レクスプレス」は70年3月、ジョンとのインタビュー記事を掲載。そのなかでジョンはビートルズがバッキンガム宮殿の手洗いでマリフアナを吸ったことを認めた。しかし、このことはジョンが時折見せる独特のユーモアとしてみられている。ビートルズ・アンソロジーで、ジョージは「たばこを吸った」と否定した。リンゴは「はっきり覚えていない」と煙に巻いた。


ブライアンのアシスタントだった”何でも屋”のアリステア・テイラーは、アンソロジーが発刊された後に出版した著書のなかでジョンの話を肯定している。
4人はトイレでマリフアナを吸った後、女王に謁見するころはクスクスと笑いが止まらず、飛んでる状態寸前だったという。ジョンは、女王のティーカップにLSDの錠剤を落とす計画もあったことを告白した、という。


ただ「ジョンの場合、本気なのかどうか区別がつかない」ともある。アリステアは結論として、国が行う式典はすべて偽善だと嫌悪していたジョンが、授与式を乗り切るためにドラッグの助けを必要とした、と書いている。
「この日のビートルズ」の次回は、11月4日です(更新は11月2日)。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
お知らせ
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND )」
1967年6月1日発売 東芝EMI
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年10月26日)






第12回 2007年 11月4日


1963年、英国はビートルズ一色に染まった。音楽誌チャートの首位を独占。テレビ・ラジオの出演は50回を超え、250日近くのステージもこなした。彼らを追いかけて交通をマヒさせたり、コンサート会場で金切り声をあげたりするファンの執着と熱狂ぶりから、有名な「ビートルマニア」という言葉が生まれた。


前年10月にレコードデビューした4人が英国のスターダムにのし上がるのに長い時間は必要なかった。初のナンバーワン・ヒットは年明けに発売された2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」。2月22日付でニュー・ミュージック・エクスプレスの1位に輝いた。

その後は「フロム・ミー・トゥ・ユー」(4月発売、2週連続1位)、「シー・ラヴズ・ユー」(8月発売、通算6週1位)、「抱きしめたい」(11月発売、6週連続1位)と、この年発売したシングル4枚がたて続けに1位になる。

ファースト・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」は5月8日付から29週間連続で首位の座を続け、11月27日付で2位に落ちると、入れ替わって1位になったのはセカンド・アルバム「ウイズ・ザ・ビートルズ」。これは21週間連続で1位を守り、同じグループが連続50週間首位を続ける離れ業を達成した。

しかし、この年のハイライトは「ロイヤル・バラエティー・パフォーマンス」の出演につきる。芸能アーティスト慈善基金を支援するため11月4日、ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ・シアターでエリザベス皇太后、マーガレット王女、スノードン卿らが臨席して開かれた。

マレーネ・デートリッヒも出演者に名を連ねた御前演奏に19組中7番目に登場した。プロモーターのバーナード・デルフォントは、英国国教会の重鎮やプレス関係者の気分を害するかもしれない危険を承知したうえでビートルズを招いたという。10歳になる彼の娘の推薦があったとされるが、宮殿からおとがめはなかった。

カーテンが上がってすぐに「フロム・ミー・トゥ・ユー」を始めたが、客席からはいつもの歓声や金切り声は聞こえてこなかった。彼らの視界の先には、社交界の名士やこれからデビューしようとする淑女らが宝飾を身にまとって座っていた。
1年ほど前までは革ジャン姿で演奏していた「おにいちゃん」たちにとって、ここは明らかに場違いだった。

続いて「シー・ラヴズ・ユー」を演奏し、ポールが名作ミュージカル「ザ・ミュージック・マン」からの曲を歌うと告げる。「いつもちょっとフラットなポール」は、ボードビルの女王と呼ばれ、およそビートルズが好きとは考えられない歌手ソフィー・タッカーが「ビートルズがお気に入りの米国のグループだ」と冗談をいって会場を少し沸かせた。そして「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」を演奏した。

ジョンは最後の曲「ツイスト・アンド・シャウト」を紹介する際、あの名文句を発する。 「最後の曲になりましたので、みなさんにも少し協力していただきたく思います。安い席の方は拍手を、そのほかの方は宝石をジャラジャラ鳴らしていただけますか」
会場が爆笑の渦に包まれる中、ジョンはクイーン・マザーにおちゃめに一礼するのを忘れなかった。

客席にいたブラインアン・エプスタインは胸をなで下ろした。本番前、ジョンは楽屋で「そのいまいましい宝石とやらをジャラジャラ鳴らしてみやがれ、とでもいってやるか」と話していたからだ。

「ぼくもひどくあがっていた。だけどちょっとばかり反抗的なことを言いたかった」とジョン。アンコールは許されなかったが、称賛の拍手が長引き、次の出演者のディッキー・ヘンダーソンの登場が遅れてしまった。
翌日、「ビートルズが王室をロックさせる」と見出しをつけた新聞もあった。全国紙のデイリー・ミラーは「ビートルマニア!」の見出しで「ロイヤル・バラエティー出演者の首根っこをつかみ、ティーンエージャーみたいに『ビートルマニア』にさせたのは実に爽快(そうかい)だった」と書いた。

このショーは6日後にテレビで全国放送された。王室や上流階級をやんわりと皮肉ったジョンの当意即妙なジョークは、彼らの人気とその後の評価を決定づけたといっていい。ショーのあとに4人と会って会話を交わしたクイーン・マザーは、後に「彼らが一番興味深かった」と発言している。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、11月24日(更新は11月22日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
お知らせ
「プリーズ・プリーズ・ミー」
1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン
収録曲
アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア
ミズリー
アンナ
チェインズ
ボーイズ
アスク・ミー・ホワイ
プリーズ・プリーズ・ミー
ラヴ・ミー・ドゥ
P.S.アイ・ラヴ・ユー
ベイビー・イッツ・ユー
ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット
密の味
ゼアズ・ア・プレイス
ツイスト・アンド・シャウト
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年11月2日)




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