甲虫記 4
第13回 2007年 11月24日
ビートルズの活動は、「ライブ時代」と「スタジオ時代」に大別できる。
ライブ活動は、1966年8月29日の米国・サンフランシスコのキャンドル・スティック・パーク公演を最後に終止符が打たれた。帰国後、思い思いの休暇を過ごして気力を充実させた4人は、11月24日、ニュー・アルバム制作のため、再びアビイ・ロード・スタジオに集まる。
締め切りに追われることなく自分たちのペースで仕事をすることが約束されていた。最初に取りかかった曲が、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。66年秋、ジョンが出演を引き受けた映画「わたしの戦争」の撮影中にスペインのアルメニアで書き上げた。
「ストロベリー・フィールド」はリバプールにあった救世軍運営の孤児院のことだ。ジョンが育ったミミ叔母さんの家の近くにあった。ジョンの子ども時代の記憶をよみがえらせる場所である。
この曲には、テープの逆回転や変速録音などデビュー以来、4人がレコーディングスタジオで学んだありとあらゆるものが集約されている。4人の創造性が開花する「スタジオ時代」の幕開けにふさわしい曲となった。
苦心作でもある。完成までに7回のセッションを重ね、そのたびに曲は姿を変える。「テイク1」と完成版では、ストリング・シンセサイザーの前身の楽器、メロトロンを使った部分だけが共通するだけとされる。
ジョンは録音を始める前、スタジオでジョージ・マーティンの向かい側に座り、アコースティック・ギターを弾きながら歌ってみせた。
「文句なしに素晴らしかった」。そんな風にマーティンが述懐する曲のテイストは、アンソロジー2に収録された「テイク1」で味わうことができる。
ところが、いつもの楽器編成で録音を重ねるうちに曲のテンポが速くなりヘビーになっていったという。
「ジョンは何も言わなかったが、ジョンが当初に思い描いていた出来とは違うことは何となく分かっていた」
ベストとされた「テイク7」もわずか9日間の命。ジョンがマーティンに「もう一度取り直したい」と訴えた。話し合いの結果、マーティンがトランペットとチェロのスコアを書き加えることになる。
4人は新たなリズム・トラックを録音することから始めた。「テイク15」の初めから4分の3と「テイク24」の終わりから4分の1をつなぎ合わせた編集トラックをもとに、リメイク・バージョン「テイク26」がつくられた。
高々と鳴り響くトランペット、異様にヘビィなドラムス、躁(そう)病的でやたらとテンポの速いジョンのボーカル。スコアをつけたリメイク・バージョンは、アコースティックな「テイク1」とは似ても似つかぬ強烈なサウンドになった。
ジョンは再びマーティンに注文を出す。それは、キーもテンポも違う「テイク1」と「テイク26」をつなぎ合わせてひとつの曲にするという無理難題だった。「君ならできる」とも付け加えた。
マーティンとエンジニアのジェフ・エメリックは、2つのテイクを入念に調べ、最初の「テイク7」の速度を上げ、後の「テイク26」の速度を下げればうまくつなげるかもしれないと考えた。速度調整が可能なテープ・レコーダーを使い、つなぎ目のところで両方のピッチが同じになるように試した。
神は幸運をもたらした。12月22日、録音開始から丸1カ月がたとうとしていた。
曲のつなぎ目が知られるようになったのは、CD化された80年代後半からのことだ。曲の頭からちょうど60秒のところにある。
ビートルズ研究家のマーク・ルイソンはこうも忠告する。
「いったんその位置がわかったら、この曲は二度と同じようには聴こえなくなるだろう」
曲づくりもさることながら、ジョンの子ども時代の思い出と重ね合わせて、この叙情詩の世界を探ることも興味深い。何しろジョンはこの曲で「自分自身を表現しようとした」とインタビューに答えているからだ。
歌詞のなかに「No one I think is in my tree」(誰も自分の「樹」にはいない)とある部分は、子どものころから「自分みたいにヒップなやつはどこにもいなかった」「ぼくは狂人か天才のどっちかだった」と「感じていた」ことを指すという。次に歌詞は「I mean it must be high or low」(高すぎるか低すぎるせいだろう)と続く。「きっと自分には何か問題があるからだと思っていた。異常なうぬぼれ屋なんだと思ったね。人に見えないものが見えるんだから」
ジョンは、ストロベリー・フィールドのゴシック的な建物の壮麗さと森の神秘性に魅せらていた。そこは自分が1人きりになれる場所で、自由に想像力の翼をはばたかせことができた。そして自分は周りのみんなと違っている、という自意識のシンボルになっていたのだろうか。
音楽ジャーナリスト、スティーブ・ターナーは、「彼独自の世界観を表現した曲だとするなら、『自分と波長があう人間はひとりもいない、みんな高すぎるか低すぎる』と書かれていた初期の歌詞の方が伝わりやすかったはずだ」と指摘する。歌詞の意味をわざとぼかしたのは、「気取っていると思われるのを嫌ったためだろう」とも。
ニューヨークのセントラル・パークにあるジョンの慰霊碑は、ジョンの最高傑作に敬意を表して「Strawberry Fields」と呼ばれている。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、12月11日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
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本文中に登場するアルバム
「アンソロジー2」
1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン
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「ビートルズ1967~70」
1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン
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「マジカル・ミステリー・ツアー」
1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年11月22日)
第14回 2007年 12月11日
ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが、初のベスト・アルバムを発表した。
ジョン・レノンがプロデュースした未発表曲「トゥー・メニー・クックス」を収録。ミックによれば、73年にロサンゼルスの空いたスタジオでジョンと録音した曲だという。「ぼくが歌って、彼がギターを弾いた」
ビートルズとストーンズ。英国を代表するロック・バンドの成功は、彼らの実力とともに有能なマネジャーの才覚にも支えられている。
ブライアン・エプスタインは、ハンブルクのいかがわしいクラブのステージに立ち、革ジャン姿で演奏していた労働者階級の青年たちをスーツ姿に着替えさせ、健全なイメージで売り出した。
ビートルズの広報代理人の経験があるストーンズのマネジャー、アンドルー・ルーグ・オールダムは、ビートルズと正反対のイメージで売ることがストーンズを成功に導く近道と考えた。優等生が好きな娘もいれば、悪ガキにひかれる女の子もいる。中流階級の若者たちにわざと荒々しく、反抗的なイメージを植え付けた。両者は音楽誌のチャート争いで競っているようにも見られたが、実は、レコード発売日が重ならないようにマネジャー同士で「談合」していた。
メンバー同士も仲が良かった。ジョンとポールが提供した「アイ・ウォナ・ビー・ヨア・マン」は、ストーンズ初の英国ベスト10ヒットになった。ジョージはブライアンにシタールの手ほどきをしている。彼らは、しばしばロンドンの有名なクラブで一緒にグラスを傾け、世間が競争相手と勘違いしていることを笑っていたのだろうか。
ストーンズがビートルズのテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」に触発されてミュージック映画「ロックンロール・サーカス」の撮影を思い立った、としても不思議ではない。ミック自身も参加した史上初の衛星生中継番組「アワ・ワールド」の刺激もあった、といわれても納得できる。
「ロックンロール・サーカス」は、BBC・TVのクリスマス特別番組用に収録された映画だった。1968年12月10日からウエンブリーのインタテル・スタジオでリハーサルが始まり、11日から12日早朝にかけて撮影された。
監督はビートルズの3本目であり最後である主演映画「レット・イット・ビー」を手がけたマイケル・リンゼイ・ホッグ。大テントの中に集まった観客が音楽と余興のサーカスを楽しむという筋書きで、観客の頭上で空中ブランコに乗る曲芸師や火食い男、調教された虎などが次々と登場する。
ジョンはこのショーに招待され、一夜限りのスーパー・セッションを披露する。メンバーは、直前に解散したクリームのエリック・クラプトン、ストーンズのキース・リチャード(本名リチャーズに戻す前)、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのドラマー、ミッチ・ミッチェル。
この夜だけのために編成された、豪華な面々。キースはこのセッションに参加するため、わざわざベースギターの担当を買って出たほどだ。ストーンズのベーシスト、ビル・ワイマンに言わせれば「おれを追い出した」ということになる。
バンド名は「ダーティー・マック」。「汚いマッカートニー」とは穏やかではない。
グループとしての一体感が崩れていくきっかけになった、とされるホワイト・アルバムの長い録音セッションを終えたばかり。ジョンは、勝手にいくつかの曲の録音を1人で完了させてしまったポールに腹を立てていたというから、なかなか意味深である。
ところが、このバンド名をめぐってビートルズの解散問題に発展したとか、メンバー同士でもめたとか、いう話はきかない。
肝心の映画が、ミックの鶴の一声でお蔵入りになり、96年10月にVHSで発売されるまでの約28年間も公表されずにいたためだろう。
長らく封印された理由は、ストーンズが自分たちの演奏の出来に満足していなかった、という説が有力だ。丸1日かかった撮影の末にトリを務めた彼らの演奏には、体調が万全ではなかったからか、「ノリ」とか「切れ」が感じられなかった。
名作「ロック・オペラ・トミー」を発表して勢いに乗る「ザ・フー」の演奏に完全に食われてしまっている。
そのなかで、ダーティー・マックの演奏は別格だった。「ヤー・ブルース」は、離婚問題に悩んでいたジョンがヨーコに助けを求めた陰気な曲だが、初めて映像をみたとき、「こんなに格好良い曲なのか」と感動したくらいだ。クラプトンのギターワークだけが理由ではない。長髪、ジーンズ、スニーカー。ほかの3人を従え、普段着姿で演奏するジョンの姿が新鮮に映った。
もう1曲。イスラエル出身のバイオリニスト、アイブリー・ギトリスを迎えて「ホール・ロッタ・ヨーコ」を演奏する。盛り上がってきたところでオノ・ヨーコが登場。叫びというかボーカルというか、マイクを握ってのパフォーマンスが続く。
ジョンの遺作「ダブル・ファンタジー」は、彼女の歌がジョンの曲と交互に収録されている。その評価をめぐり、ファンの間で「賛否両論」が存在する。少なくとも僕の周りでは、ジョンの歌だけをカセットテープに落として聴く「ビートルズ偏愛者」もいた。
しかし、この時のパフォーマンスは、曲の流れを壊すことなく彼女の心情の発露として素直に聴けた。別名「ハー・ブルース」とも呼ばれているらしい。
「この日のビートルズ」の次回は、12月27日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
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「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」
2007年10月24日発売 WARNER MUSIC JAPAN(WP)(M)
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ロールド・ゴールド・プラス~ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・ローリング・ストーンズ
2007年11月14日発売 UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)
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With the Beatles [from US] [Import]
1990年10月25日発売 Capitol
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ロックンロール・サーカス
1997年1月1日発売 ポリドール
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ダブル・ファンタジー [Limited Edition]
2007年12月5日発売 EMI MUSIC JAPAN
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入門ビートルズドリル
2007年11月16日発売 ダイヤモンド社
ビートルズはどんなバンドだったのか? ビートルズが音楽史に果たした役割はどんなものだったのか? ビートルズは社会・文化にどんな影響を与えたのか?
ビートルズドリルは、クイズを楽しみながら、ビートルズに関する知識を広め・深めることのできる1冊です。
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Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総
第15回 2007年 12月27日
ビートルズはドイツのハンブルク・ツアーで修業を積み、実力を磨いてから、故郷リバプールで成功した。いわば「逆輸入」バンドでもある。1960年のこの日は、リバプールでの人気に火をつけた記念すべきステージがあった日だ。そのきっかけは、「失意の帰国」から始まる。
ジョンのバンド「クオリーメン」は頻繁にメンバー交代を繰り返していた。そのたびにジョン、ポール、ジョージの3人の絆は堅く結ばれていく。
1959年夏、クオリーメンはピート・ベストの母親モナが自宅の地下室を改装して開いたカスバ・コーヒー・クラブで、ケン・ブラウンを加えた4人で本格的な音楽活動を再開した。
ところが、同年10月には「ジョニー&ザ・ムーンドックス」を名乗り、ケンを除いた3人でコンテストに参加する。ケンとはカスバ・クラブでのギャラの問題でしこりが残り、結局、バンドを辞めさせている。
60年になると、ジョンのアートスクールの同級生、スチュアート・サトクリフを4人目のメンバーに加えた。5月には「シルバー・ビートルズ」の名でバックバンドとしてスコットランド・ツアーに出かける。
バンド名をザ・ビートルズと改めると、8月17日から11月30日までの最初のハンブルグ・ツアーに旅立つため、リバプール・カレッジエイトを中退したピート・ベストをドラマーに加える。
最初のクラブ、インドラでは、毎日ノンストップで演奏した。ここが騒音妨害で閉鎖されるとカイザー・ケラーに移った。演奏と休憩を1時間ずつ交互に繰り返し、1日6時間のステージをこなした。
古いロックンロールを中心に、自作曲も織り交ぜて演奏した。観客の反応をみて何が求められるのかというショー・ビジネス感覚を磨き、独自のスタイルを築いていく。レパートリーも徐々に増えていった。
リンゴが在籍していたロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズと交互にステージに出演。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴとハリケーンズのルー・ウオーターの5人で「サマータイム」など3曲の自主制作盤もつくった。
ところが、ビートルズが別のクラブに通っていたことを快く思わなかったプロモーターの差し金によって、ジョージが国外退去処分を命じられてしまう。当時17歳のジョージは「18歳未満は夜間のクラブへの立ち入りを禁止する」という法律に抵触していた。ビートルズは就労許可証もビザも持っていなかった。
11月21日、ドイツ人の写真家アスリット・キルヒヘアと交際していたスチュアートが、失意呆然となったジョージをアスリットと一緒にハンブルク駅まで見送った。自宅に戻ったとき、ジョージは一文無しになっていたという。
続いてポールとピートも、寝泊まりしていた映画館の屋根裏でボヤ騒ぎを起こして、同じく国外退去処分になった。スチュアートをハンブルクに残し、ジョンも直後に帰国する。
スチュアートは脱退したわけではないが、リバプールで4人が活動するには臨時のベーシストが必要になった。ピートはケン・ブラウンを推したが、ジョンとポールは過去の因縁を恐れた。
ポールは、ケンがクオリーメンを追い出された後に在籍したバンドでギターを弾いていたチャス・ニュービーの参加を提案した。ポールは、同じ誕生日で同じ左利きのチャスの名前を覚えていた。
化学の学生だったチャスは、大学がクリスマス休暇中だったため短期間なら参加できると返事をした。革ジャンとベースギターを借りて、12月17日、モナの店カスバ・クラブでビートルズと初共演した。
チャスがビートルズと演奏したのはわずか4回だ。そのなかで12月27日のリザランド・タウン・ホールでの公演は、リバプールでビートルズの人気が急上昇する「ターニング・ポイント」になった。
この公演は、オーディションに合格して急きょ出演が決まった。ポスターのキャッチコピーは「ハンブルクから直撃、ビートルズ」。地元では無名に近く、全員が革ジャンを着て黒ずくめのスタイルも独特だった。彼らはハンブルク出身のバンドと勘違いされ、観客には「ずいぶん英語がうまいね」と真顔で言われた。
当時、経理の勉強をしていたベスト家の間借り人、ニール・アスピノールがビートルズを初めて見たのはこのときだった。後にビートルズ初代ロード・マネジャーや「アップル」の役員を務め、「アンソロジー」ワークでは重要な仕事を果たした人物だ。
ステージの幕が上がり、ポールが「ロング・トール・サリー」を歌い始めると、観客は騒然となった。
磁力に吸い寄せられるようにステージに走り寄ってきた。ハンブルクのナイトクラブで演奏してきたナンバーを次々と披露すると、彼らもこれまでみたことない熱狂を生み出した。
「爆弾を落としたのさ」とジョージ。ジョンは「僕らが殻を破って思いっきりやれるようになったのはあの晩からだ」という言葉を残している。
大みそかのギグを最後にチャスはビートルズを離れた。翌年、2度目のハンブルク・ツアーに同行するのをジョンに誘われるが、断っている。
もしジョンの誘いに乗っていたらどうなっていたか。
地元音楽誌「マージー・ビート」の編集長ビル・ハリーには、「興味はなかった」「後悔するというようなことになかった」と答えている。ビートルズより学業を優先した男、チャス・ニュービーは、アンソロジーにも登場することなく、その存在を知る人は少ない。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、1月11日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
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初期のビートルズのサウンドが聴ける2枚をご紹介。いずれも61年にハンブルグでトニー・シェリダンのバック・バンド「ビート・ブラザーズ」として録音した曲を集めたもの。20歳のレノンが出演している。ドラマーはピート・ベスト。リンゴ・スターが加わる以前の「ビートルズの原点」ともいえるものだ。
「マイ・ボニー」
1994年2月25日発売 ポリドール
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「イン・ザ・ビギニング」
2000年12月16日発売 ユニバーサル インターナショナル
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第16回 2008年 1月11日
ミレニアムに発売された「ザ・ビートルズ1」には、ビートルズが活動していた1962年から70年にかけて英米のチャートいずれかで1位になった27曲が収められている。
正直に言おう。「ベスト盤? 何をいまさら」と鼻で笑っていた。ところが、日本だけで300万枚も売れ、東芝EMIの担当者の予想も覆す大記録となった。売り場を視察した担当者は、解散して30年もたつバンドのCDを10代の少年少女らが次々と購入する光景に目を疑ったそうだ。
ひとつだけ難癖をつけるとすれば、英国初のナンバー・ワン・ヒット「プリーズ・プリーズ・ミー」が収録されていないことだ。
1963年1月11日、第2弾シングルとして発売された。ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌で2週連続1位に輝くなど英国の主な音楽チャート(当時)のうち、レコード・リテイラー誌を除いた5つのチャートで1位になった。
一方、米国では、64年1月30日に再発売され、ビルボードとキャッシュ・ボックスの両誌で最高位3位を記録した。
この成功は、自作曲にこだわるビートルズと音楽プロデューサー、ジョージ・マーティンの揺るぎない信頼関係を生み出すことにつながる。
62年4月、EMIのレコード・プロデューサーだったマーティンは、友人の紹介でブライアン・エプスタインに会い、ビートルズの自主制作盤を聴くことになった。彼らの演奏に初めてふれた感想は、意外にも「可もなく不可もない、平凡な出来」であった。
ただ、ある種の荒っぽさに感覚を揺さぶられた。歌っているのが1人だけでないのも気になった。次第に彼らが演奏するところが見たくなり、録音テストを兼ねたオーディションをすることにした。糸はつながった。
6月6日、彼らに初めて会った。「一目ぼれだった」と自著に記す。「非常に人の注意を引く彼らの個性、一緒にいて魅力を感じる若者だった」。録音契約を結んだ。
もっとも、現場に立ち会ったスタジオ・エンジニアのノーマン・スミスは、ビートルズがマーティンに認められたのは、演奏力や曲の良さというより、彼らの会話のおかげだと本気で信じている。
録音の途中、マーティンは4人に色々と指示をしたが、彼らは何も言い返さなかった。そこで「何か気に入らないことでもあれば遠慮せずいってくれ。何とか手だてを考えてみる」と呼びかけた。
4人はお互い顔を見合わせて長い間モジモジしていた。そして17歳も年が離れたジョージ・ハリソンがマーティンの顔をまじまじとみながらいった。「うん、あんたのネクタイが気に入らない」。マーティンは腹の底から笑った。
双方の関心は、どうやってヒット曲を生み出すか、に変わった。
マーティンは、ジョンとポールの曲作りの能力について「先行き売れる見込みがない」と厳しい評価をしていた。彼らのスタイルにあった他人の曲を見つけ、声が最も魅力的と評価したポールをリーダーに、ほかの3人はバッキング・グループにする「思い違い」もプランにあった。一方、ビートルズは自作曲にこだわりをみせていた。
9月4日に2回目の録音。ドラマーがリンゴに代わった新生ビートルズ。マーティンはプロの作曲家が書いた「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」を録音させた。それが終わるとリンゴがドラムをたたいた自作曲「ラブ・ミー・ドゥ」の録音もした。
4人は自作曲でのデビューをかたくなに主張した。マーティンは、「ハウ……」に匹敵する曲が書ければそちらをやることにしよう、とかわした。
マーティンは頭の中のモヤモヤを整理したかった。妻と連れ立って4人が出演するリバプールの「キャバーン・クラブ」に出かけた。
立錐の余地もない地下の「穴蔵」は、人いきれがすぐに水滴になって壁をつたうような熱気があった。そこで聴衆がビートルズの「耳障りな音楽」に一瞬一秒にのめり込んでいく様子を目の当たりにした。ビートルズの音楽が、若者が本質的に求め、枯渇していた最も深いルーツからあふれるものだと気づいた。
マーティンは、「ボーイズ」と呼ぶ4人に選曲を任せることにした。デビュー曲は「ラブ・ミー・ドゥ」に決まり、「ハウ……」はEMIの貴重な秘蔵盤になった。
9月11日、デビュー曲の仕上げの録音が終わると、次に4人は「プリーズ・プリーズ・ミー」に取りかかった。
この曲は、ビング・クロスビーが32年に発表した「Please」にヒントを得ている。言葉遊びが好きなジョンが、歌詞の「お願いだ(please)ぼくの願い(pleas)に耳をかたむけてほしい」にある「please」と「pleas(『懇願』の意味を持つpleaの複数形)」という同音異義語を使った手法に感動し、綴りと発音が同じで2つの意味を持つ「please」という言葉を使って曲を作ろうと思いついた。
ロイ・オービンソンの「Only The Lonely」からインスピレーションをうけて書いてもいる。最初のテイクを録音したテープは現存しないが、マーティンが「とてもスローで、ボーカルはブルージーで、ロイ・オービンソンのナンバーみたいだった。テンポを速めなくちゃ使い物にならないと思った」と話していることから、何となくイメージはつかめる。
マーティンは、「テンポを上げてタイトなハーモニーをつければ、パッとした曲になる」とジョンにアドバイスした。自作曲でデビューを飾ることができた4人は、長身の「音楽教師」の言葉に素直に従った。
11月26日、「プリーズ……」に再びチャンスが巡ってきた。ジョンが「ちょっと変えてみた」曲は、つぼを押さえたマーティンのアドバイスが効果的にいかされていた。
録音が終わると、マーティンはスタジオ内のマイク・ボタンを押して言った。
「初のナンバー・ワン間違いなしだ」
ポールは「マーティンが先を見る目があることを初めて示した」と敬意を込めたコメントを残している。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、1月30日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
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「THE BEATLES 1」
2000年11月13日 EMIミュージック・ジャパン
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収録曲
ラヴ・ミー・ドゥ
フロム・ミー・トゥ・ユー
シー・ラヴズ・ユー
抱きしめたい
キャント・バイ・ミー・ラヴ
ア・ハード・デイズ・ナイト
アイ・フィール・ファイン
エイト・デイズ・ア・ウィーク
ティケット・トゥ・ライド(涙の乗車券)
ヘルプ
イエスタデイ
デイ・トリッパー
恋を抱きしめよう
ペイパーバック・ライター
イエロー・サブマリン
エリナー・リグビー
ペニー・レイン
オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ(愛こそはすべて)
ハロー・グッドバイ
レディ・マドンナ
ヘイ・ジュード
ゲット・バック
ジョンとヨーコのバラード
サムシング
カム・トゥゲザー
レット・イット・ビー
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード
Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2008年1月11日)
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