2009年9月21日月曜日

甲虫記 1 (朝日新聞アサヒコム どらく)

甲虫記 1 (朝日新聞アサヒコム どらく)



第1回 2007/6/18



年をとるにつれ昔の出来事の記憶は薄らいでいく。だけど、あの4人に関する「この日」だけは、忘れてしまいたくはない。20世紀最高のファブ・フォーをこよなく愛する人たちへ。ビートルズの4人にまつわる日付を手がかりに、思いつくまま、気の向くまま、つらつらと記していきます。

© Express Newspapers / NANA



1967年、アルバム“SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUBBAND”発売を祝うパーティーでのビートルズ









ポール・マッカートニーが健在ぶりを示した。65回目の誕生日を前に2年ぶりのソロアルバム「メモリー・オールモスト・フル」をリリース。ビートルズ解散以降、ベスト盤とライブ盤を除いた作品は通算21作目というから、「2年に1枚」を上回るペースだ。









ここ数年はツアーも意欲的だ。受賞こそ逃しはしたが、2年連続でグラミー賞にもノミネートされた。リンゴにも新作発表の予定があるらしい。すでにジョンとジョージがこの世を去り、半分になってしまったビートルズ。残された2人が活躍するニュースを耳にするだけでもうれしいものだ。









新作のニュースを聞いて、つくづくポールは勤勉な人だと思った。僕が中学生だった30数年前、先妻リンダやデニー・レーンらと組んだバンド「ウイングス」は絶頂期を迎えていた。あれからジョンの射殺、一時的なスランプ、リンダの死など人生の苦難を何度も乗り越え、音楽活動を続けてきた。何か一つのことを達成しても、すぐ次のことに向けて考える性格らしい。映像編アンソロジーでは、そんな仕事熱心なポールにリンゴが脱帽するシーンが出てくる。









ポールが音楽に取りつかれたきっかけを、ジョンの美術学校時代からの友人で音楽紙「マージー・ビート」の創刊者ビル・ハリーは、母の死という悲劇に結びつける。看護婦だった母親メアリは45歳のとき乳がんに冒される。14歳だったポールは母の死を知らされ、「母さんの稼ぎがなかったら、ぼくたちはどうなる」と言った。その言葉の裏側にある深い悲しみが、彼を音楽の世界へ没頭させたに違いないと。









メアリはたびたびビートルズの歌に登場する。「どうやって生計をたてているの、家賃はどうやって払っているの」。「レディ・マドンナ」は働きものだった母親への賛歌だ。「レット・イット・ビー」では、苦しみ悩んでいる暗黒の時に「マザー・メアリ」が姿を現す。グループ内でほかの3人との疎外感に悩んでいた。リンダとの最初に産まれた娘には、メアリと名付けた。









父親ジェイムズの名誉のために一言付け加えるとすれば、妻の死後も飲んだくれることも女と出て行ったりすることもなく、ポールと弟の2人の子どもの面倒をしっかりみたそうだ。弟のマイクは「俺たち兄弟は父親に大きな借りがある」と後に語っている。ポールが音楽を始めたのは、ジャズバンドを結成していた父親の影響でもある。









新作の話題に戻るが、2番目の妻との一連の離婚騒動の渦中ということもあり、「追憶の彼方に」(邦題)というアルバムタイトルもなにやら意味深だ。
40年前の6月1日、ビートルズの傑作アルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発売された。その中の1曲「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」はポールが16歳のころ原形をつくり、その後、64歳になった父親に捧げるために作り直したとされる曲だ。 「僕が老いぼれてもバレンタインやバースデー・カード、それにワインも贈ってくれるかい」









64歳のバレンタインデーを、再婚した妻と別居して迎えることになろうとは、40年前に歌でも予想できなかっただろう。母の死を経験して以来、どんな困難が身に降りかかろうとも、音楽を癒しの糧にして前を向いてきたはずだ。また、新しいメロディーが生まれて来るに違いない。















第2回 2007/6/25


1967年のこの日、全世界に「愛」というメッセージが届けられた。英国・BBCが企画した、全世界を網羅する史上初の衛星生中継番組「アワ・ワールド(Our World)」に英国代表としてビートルズが出演。ロンドンにあるEMIのアビー・ロード第1スタジオから、新曲「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ(愛こそはすべて)」の演奏が初めて披露された。
番組出演が決まると、どの国の視聴者にも理解できるシンプルな内容の曲づくりを依頼され、ジョンとポールは別々に着手した。自然な流れでジョンの曲に落ち着いたという。普遍的な「愛」を訴える曲のメッセージは、当時の若者が抱いていた理想を見事に写しとったと評価されている。




ベトナム戦争は激しさをましていた。各地で反戦を訴える平和的な抗議運動も起きていた。「あの曲のいいところは、誤解する余地がないところだ。愛がすべてという、明快なメッセージを持った曲だから」と当時のマネジャー、ブライアン・エプスタインは語っている。ちなみに“落選”したポールの曲は「ユア・マザー・シュッド・ノウ」だった。




生放送されたスタジオには、地球儀をあしらった風船や発売されたばかりのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにあるような花が飾られ、パーティー会場のような雰囲気があった。色彩豊かなサイケ調の服を着た4人は、正装した13人編成の楽団員をバックに演奏した。コーラス・ゲストに呼ばれたミック・ジャガー、エリック・クラプトン、キース・ムーンらが彼らを囲んでいた。フランス国歌の一節から始まる曲目には、「イン・ザ・ムード」「グリーン・スリーブス」「シー・ラヴズ・ユー」などなじみの曲も織り込まれた。「愛さえあれば」にあたる言葉を数カ国語で書いたプラカードが、国と人種を超えた団結という曲のメッセージを強調した。さながら、アフリカの飢餓を救おうと英米のミュージシャンが連帯した「ライブ・エイド」(1985年)の先駆けのような番組だったのだろう。




彼らの偉業は、しばしば大げさな数字で伝えられる。74年に僕が買ったレコードの解説書には「15億人がみた」とあった。地球に住む2人に1人が見たことになる。アンソロジー(映像編)の解説書には「推定4億人」とあった。「3億人」はプロデューサーのジョージ・マーティンの言葉。生中継された国の数も、日本も含めて「31カ国」「26カ国」「24カ国」など諸説ある。



5大陸にまたがったことは間違いなさそうだ。
僕は長い間、「ビートルズが衛星生放送番組で新曲をレコーディングした」と信じていた。レコードの解説書にそう書いてあったからだ。正しくはビートルズのレコードディング・セッションを再現したものだ。事前に別のスタジオで伴奏トラックが録音され、さらにボーカルを加えて6分に短縮されたトラックをつかい、4人が当日のライブで歌い演奏したのだった。




しかし、この日のジョンの姿を映像で見ていると、彼にとってビートルズ時代、最後のハイライトシーンだったのでは、と思えてならない。ヘッドフォンを左耳にあて、チューイングガムをかみながら全世界に愛のメッセージを伝える。「史上初」という冠はいくつも経験した彼だが、頂点を極めたという達成感を強く受けるのだ。
約2カ月後、4人を英国の港町から世界のスターダムへと押し上げたブライアン・エプスタインが変死体で発見される。マネジャーの死を知らされ、インタビューを受けるジョンの顔は青ざめていた。“落選”したポールが、次第にグループのリーダーを演じなければならなくなるのは、それからだ。


「アワ・ワールド(OUR WORLD)」のおよそ1カ月前に発売された。
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND )」




1967年6月1日発売 東芝EMI




収録曲
【A面】
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド/ Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ / With A Little Help From My Friends
ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ / Lucy In The Sky With Diamonds
ゲッティング・ベター / Getting Better
フィクシング・ア・ホール / Fixing A Hole
シーズ・リーヴィング・ホーム / She's Leaving Home
ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト/ Being For The Benefit Of Mr. Kite!
【B面】
ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー/ Within You Without You
ホエン・アイム・シックスティ・フォー / When I'm Sixty-Four
ラヴリー・リタ/ Lovely Rita
グッド・モーニング・グッド・モーニング / Good Morning Good Morning
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(リプライズ) / Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Reprise)
ア・デイ・イン・ザ・ライフ/ A Day In The Life

Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年06月25日)





第3回 2007/7/6




50年前のこの日、世界を変える2人の若者が出会った。英国の港町リバプールにあるセント・ピーターズ教区教会。よく晴れた暖かい土曜日の午後、恒例の夏祭りが開かれていた。
友人のアイバン・ボーンに誘われたポール・マッカートニーは、自宅から約2キロ離れた教会に自転車でやってきた。母親を病気で失ってからのポールは音楽にのめり込んでいた。



会場に着くなり、野外ステージのバンド演奏をみつけるとすぐに足を運んだ。
チェックのシャツを着て、ブロンドの髪をちょっとカールさせた、なかなかセンスのいい男に目がいった。ドラマーがいないスキッフルバンドをバックにして、デル・バイキングスの「カム・ゴー・ウイズ・ミー」を歌っていた。




「歌詞は間違っていたけど、歌はうまくてかっこよかった」
ステージに立つジョン・レノンを初めて観たポールの感想だった。ジョンは自分がつくったバンド、「クオリーメン」を率いていた。
ジョンはまもなく16歳9カ月になろうとしていた。ポールは15歳になったばかりだ。日本でいえば高校3年生と1年生の関係だから、お互いがものすごく年の差を感じているころだ。
ジョンは近所でも評判の不良少年だった。学校は違ってもポールは彼の存在を知っていた。バスの中では遠くから見ていた。「あんまりジロジロ見ると殴られるぞって思っていた」。どこか人を寄せ付けない雰囲気をジョンに感じていた。




だが、この日、ジョンのステージ姿をみたポールに魔法がかかった。
実は、アイバンはジョンの友人で、クオリーメンの“時々メンバー”でもあった。ポールを教会に誘ったのは、リーダーのジョンに引き合わせてバンドに入れようとしたからだ。
ことはアイバンの思惑以上に進んだ。演奏が終わるとポールはアイバンと一緒に楽屋を訪ねた。夜のステージに備えていたメンバーは、全員が未成年だったがビールを飲んでくつろいでいた。ポール少年も場に合わせて精一杯、いきがって見せた。




夜のステージが終わると、20世紀最高のオーディションが始まった。
ポールはメンバーの前でピアノを弾いた。「ロング・トール・サリー」「トゥティ・フルティ」などリトル・リチャードの曲をやって見せた。茶箱や洗濯板を楽器にしていたスキッフルバンドのメンバーは驚いた。続いて左利きのポールは右用のギターを逆さに持ち、エディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック」の歌詞を正確に歌って見せた。これにはジョンもぶっ飛んだ。さらにポールは「トゥエンティ・フライト・ロック」とジーン・ビンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」の歌詞を紙に書いてジョンに渡した。最後にギターのチューニング方法を教えて、とどめを刺した。




ジョンは、ギターのコードを2つしか弾けなかった。しかも、母親から学んだ、弦が5本しかないバンジョーの弾き方でギターを演奏していた。家に帰り、ポールに教わったコードの押さえ方を覚え直した。
ポールに出会ったときのことを述懐するジョンの言葉には、自分と同等の、あるいはそれを上回る「何か」に出会った時の恐れと喜びが対峙する。




「もしポールを仲間に入れたら、僕は彼をいつも追いかけていなきゃならないかもしれない。でも、ものすごく上手だから仲間に入れる価値はあった。それに、エルヴィスにも似ていた。要するに、僕はあいつに惚れたんだ」
数日後、ポールはクオリーメンのメンバーのピート・ショットンにまちで出くわし、「僕らのバンドに入る気はないか」と誘われた。ジョンは無二の親友ピートにポールのメンバー入りを相談していた。ポールは嬉しくて仕方がなかったというが、その気持ちを押し殺して「考えとくよ」とだけ返事した。今度はアイバンを通じてジョンに「イエス」と伝えた。
記録によれば、その年の10月18日、ポールはリバプール市内であったクオリーメンのギグに初めて参加する。バンド名が「ビートルズ」と変わり、世界制覇に向けてデビューするのは、それから5年後になる。

『アンソロジー(1)』
1995.11. 22発売 東芝EMI




収録曲
【ディスク:1】
フリー・アズ・ア・バード
スピーチ:ジョン・レノン
ザットル・ビー・ザ・デイ
イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デンジャー
スピーチ:ポール・マッカートニー
ハレルヤ,アイ・ハー・ソー
ユール・ビー・マイン
カイエンヌ
スピーチ:ポール・マッカートニー
マイ・ボニー
エイント・シー・スウィート
クライ・フォー・ア・シャドウ
スピーチ:ジョン・レノン
同:ブライアン・エプスタイン
サーチン
スリー・クール・キャッツ
ザ・シーク・オブ・アラビ
ライク・ドリーマーズ・ドゥ
ハロー・リトル・ガール
スピーチ:ブライアン・エプスタイン
ベサメ・ムーチョ
ラヴ・ミー・ドゥ
ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット
プリーズ・プリーズ・ミー
ワン・アフター・909(シークエンス)
同(コンプリート)
レンド・ミー・ユア・コーム
アイル・ゲット・ユー
スピーチ:ジョン・レノン
アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
フロム・ミー・トゥ・ユー
マネー
ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー
ロール・オーバー・ベートーヴェン
【ディスク:2】
シー・ラヴズ・ユー
ティル・ゼア・ワズ・ユー
ツイスト・アンド・シャウト
こいつ(ディス・ボーイ)
抱きしめたい
スピーチ:マーカム・アンド・ワイズ
ムーンライト・ベイ
キャント・バイ・ミー・ラヴ
オール・マイ・ラヴィング
ユー・キャント・ドゥ・ザット
アンド・アイ・ラヴ・ハー
ア・ハード・デイズ・ナイト
彼氏になりたい
ロング・トール・サリー
ボーイズ
シャウト
アイル・ビー・バック(テイク2)
同(テイク3)
ユー・ノウ・ホワット・トゥ・ドゥ
ノー・リプライ(デモ)
ミスター・ムーンライト
リーヴ・マイ・キトゥン・アローン
ノー・リプライ
エイト・デイズ・ア・ウィーク(シークエンス)
同(コンプリート)
カンサス・シティ/ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ

Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年07月06日)






第4回 2007/7/27



「ヘイ・ジュード」は、ビートルズのシングルのなかで最大級の成功をおさめた曲だ。1968年8月26日にアップルレーベル初のシングルレコードとして英米でリリースされると、ビルボード誌の全米チャートで9週連続1位に輝くなど世界中のチャートを総なめにした。同年だけで、500万枚以上の売り上げを記録している。




7分11秒という曲の長さもポップ・シングルの常識を超えていた。当時は3分を超えてはならないというのが慣例だった。39年前の7月29日、アビー・ロード・スタジオで4人全員がこの曲のセッションを開始した。この時に6テイクが録音されたが、完全バージョンの3テイクは、曲の長さがそれぞれ6分21秒、4分30秒、5分25秒と短かった。ジョンがアコースティック・ギターを担当、ポールがピアノというライブ形式のラインナップだった。




このテイクはいったん破棄され、3日後に別のスタジオで36人編成のオーケストラを起用したレコーディングが行われる。曲の後半4分で聴くことができる手拍子と“Nah nah nah”のバックボーカルは、報酬を倍にして協力を求めたオーケストラ・ミュージシャンらが参加したものだ。




ポールがジョンの息子ジュリアンに捧げた曲として知られている。ジョンとオノ・ヨーコの関係が表面化して2人が同棲するようになると、シンシアが離婚訴訟の手続きをとりはじめ、ジョンとジュリアンは別居することになった。ジョンとシンシアのつきあいを最初から知るポールにとって、ジュリアンの将来は気がかりだった。この別離の際にも、ポールは赤いバラを1本たずさえて5歳のジュリアンと母親を元気づけようと車で彼らの自宅へ出かけた。




片道1時間の運転中にジュリアンのことを慮りながら、「ヘイ・ジュリアン」と歌いはじめた。「ヘイ・ジュリアン」は「ヘイ・ジュールズ(ジュリアンの愛称)」と変わり、ポールは慰めと励ましをテーマにした歌詞を即興でつくった。「ヘイ・ジュールズ、悪くとるんじゃない、悲しい歌でも悲しくなくするんだ」




ジョンも同じ5歳のとき、心に深い痛手を負う。幼少のころから叔母夫婦の元で育てられていたが、そこへ行方不明だった船乗りの父親が突然現れてジョンを連れ去り、父と母のどちらをとるか過酷な選択を迫った。ジョンは母親を選び、母親がジョンを連れ戻したが、母親はすでに別の男性と同棲していた。叔母夫婦は、母親にはジョンを育てる環境にないと判断して再び引き取ることにした。母の名はジュリア。この心の痛みは、後にソロ作品「マザー」にストレートに表現されている。




「父親は死んだも同然だった」というジョンは、ジュリアンに対してどう接すればいいのか戸惑い、また自分が父親であることを恐れていたのかもしれない。ジョンとポールは思春期に母親を失うという共通点はあるが、ポールには父親がいた。ある日、ポールとジュリアンが仲良くじゃれ合う姿を見たジョンが「どうやったら(息子と)あんな風にできるんだ」とポールに真顔で耳打ちしたこともあったという。




「ジュールズ」は、歌詞を肉付けする作業に入ってから、力強く聞こえるという理由で「ジュード」に変更された。しかし、ポールは自分がつけた歌詞に最後まで自信をもてないでいた。「最終的なものじゃないよ」とジョンにみせた歌詞の中に「the movement you need is on your shoulder」(君に必要な動きは、君の肩の上にのっかっている)という一節もあった。ポールは単なる穴埋めとしか考えていなかったくだりだが、ジョンはそこを「すごいよ」とほめた。この時、自分の作品がいい出来なのかどうか、自分では判断できないのが自分だということを知った、とポールは回想している。




80年9月の月刊プレイボーイのインタビューでジョンは、「ヘイ・ジュード」は「ヘイ・ジョン」という意味で「これは僕に向けられた曲だ」と発言している。ジョンの解釈によれば曲の中に出てくる「go out and get her」という歌詞は潜在的には「go ahead, leave me」と言っていることだという。「her」とはヨーコを指し、意識のレベルではポールは僕に去ってほしくなかった、パートナーを失いたくなかったからだ、という解説だった。




ジュリアンはこうしたいきさつを、87年にニューヨークのホテルでポールと偶然出会ったときにじっくりと聞かされる。96年にはロンドンで行われた競売で「ヘイ・ジュード」のレコーディング用楽譜類を2万5千ポンドで落札した。自分の人生から避けて通れない曲だと悟ったのだろう。




2000年、父の20周忌を前にジュリアンは長い声明文を発表した。異母兄弟のショーンに対して深い愛を表してはいるが、ヨーコを厳しく非難。自分の父親に対しては「父のだらしなさと愛と平和への態度にものすごく腹をたてていました。父の言う愛と平和は家庭には全くなかったのです」など辛辣な批判を浴びせている。
「この日のビートルズ」の次回の更新は、8月8日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。

『パスト・マスターズ(2)』
1998.3.11発売 EMIミュージックジャパン




収録曲
デイ・トリッパー
恋を抱きしめよう
ペイパーバック・ライター
レイン
レディ・マドンナ
ジ・インナー・ライト
ヘイ・ジュード
レボリューション
ゲット・バック
ドント・レット・ミー・ダウン
ジョンとヨーコのバラード
オールド・ブラウン・シュー
アクロス・ザ・ユニバース
レット・イット・ビー
ユー・ノウ・マイ・ネーム

Profile
上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。
(更新日:2007年07月27日)







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